26歳・職歴なし。給料ゼロの2年半を経て、2社受けて内定が出た話


「既卒 就職できない」

「空白期間 2年」

検索窓にこういう言葉を打ち込んだことがあるなら、この記事はあなたに向けて書いています。

私は26歳のとき、社会人歴が0年でした。大学4年の秋に、決まっていた内定を辞退しました。そこから約3年、正社員として働いたことがありません。うち2年半は、給料が1円も出ない生活でした。

履歴書の職歴欄に書けることは、何もありませんでした。

その状態で就職活動をして、2社受けて、1社から内定をもらいました。

先に言っておくと、「やればできる」という話ではありません。運が良かった部分もあります。ただ、2社で済んだことには理由があって、それは全部あとから説明がつくものでした。

この記事では、その2年半に何をしていたのか、面接で何を聞かれて何と答えたのかを、できるだけそのまま書きます。空白期間をどう飾るかではなく、どう説明したかの話です。


内定を辞退した日、その先は何も決まっていなかった

私は大学生のとき、普通に就職活動をしていました。エントリーシートを書いて、面接を受けて、内定をもらいました。大手の商社でした。

そして、辞退しました。

決まった瞬間から、ずっと引っかかっていたことがありました。

このまま社会人になって、レールに乗って、それでいいんだろうか。

内定式の翌日に、電話で断った

内定が出たあと、10月に内定式がありました。私はそこにも出席しています。

辞退の電話をかけたのは、その翌日です。

誰にも相談していませんでした。親にも、大学にも、友達にも。全部、自分で決めてから、事後で伝えました。

友達の反応は、全員同じでした。

「あんな大手の内定をもらったのに、もったいない」

口をそろえて、そう言われました。

会社には、そのまま伝えました。内定を辞退させていただきたい、と。そんなに引き止められませんでした。それはそれで、少し悲しかったです。

次は、何も決まっていなかった

辞退したとき、次の予定は何もありませんでした。とりあえず地元の群馬に帰って、バイトでもしようか。それくらいの温度でした。

普通なら不安になる場面だと思います。でも実際にあったのは、すっきりした、という感覚のほうでした。

不安より、ワクワクが勝っていた。若いうちにしか、こんな選択はできないんじゃないか。 そう思っていました。

いま思えば、この「何も決まっていない」状態が、あとで効いてきます。


卒業後の半年 ── 市役所の臨時職員

大学を卒業して、私は市役所の市民課で働き始めました。臨時職員です。正職員ではなく、アルバイトのような扱いでした。

就職活動は、一切していませんでした。

焦りはありませんでした。ただ、生活には飽き飽きしていました。

毎日、同じ場所に、同じ時間に通う。楽しみはお昼ご飯だけ。 定時に打刻して帰る。それが半年続きました。

同期はもう働き始めていて、会うとよくこう言われました。

「新井みたいに思い切った行動が取れるのは、羨ましい」

内定を辞退した直後は「もったいない」と言われていたのに、半年経つと「羨ましい」に変わっていました。同じ行動でも、見る人と時期によって評価は変わります。 当時はそこまで考えていませんでしたが、いま振り返るとそう思います。

そして、この半年があったから、次にかかってきた電話に即決できました。


「人生変えたいなら宮城に来い」

連絡が来たのは、大学を卒業して半年ほど経った頃でした。電話でした。

「人生変えたいなら宮城に来い」

叔父は宮城で、釣り堀と渓流魚の養殖をやっていました。

正直に書いておくと、その叔父とは、それまでほとんど交流がありませんでした。 ほぼ知らない親戚から、突然かかってきた電話です。

それでも、即決でした。

計画があったわけではありません。予定が何も入っていなかったから、この誘いを拾えたというだけです。もしあのとき就職していたら、電話には出られても、行くことはできませんでした。

前日に、親に伝えた

群馬から宮城へは、自分の車で行きました。積めるだけ荷物を積んで、残りは宅急便で送りました。

親に言ったのは、出発の前日です。明日から宮城に行ってくる、と。

返ってきたのは、「頑張って」の一言でした。


給料ゼロの2年半、何をしていたか

宮城でやっていたことを、そのまま書きます。

  • 釣り堀の運営
  • SNSでの集客
  • 渓流魚の養殖

社員として雇われたわけではありません。アルバイトでもありません。給料は、1円も出ませんでした。

叔父はこれを「人生修行」と呼んでいました。

1日の流れ

夜9時に寝て、朝5時に起きる。それが基本の1日でした。

起きてまずやるのは、釣り堀に併設したカフェの店内掃除です。それから魚に餌をやって、水路の落ち葉を取る。水の流れが止まると魚が死ぬので、これは毎朝やります。

釣り堀の営業は、朝9時から夕方5時まで。その前後が掃除と餌やりの時間でした。

養殖のほうは、日々やることが決まっています。餌やり、水量の管理、ごみ取り、出荷する魚の仕分け。

SNSは、週に1回は動画を上げるようにしていました。イベントがあれば、その都度発信します。

週に2回、仮眠3時間の日があった

夜のアルバイトは、コンビニでした。夜22時から翌朝8時まで。週に2回入っていました。

その日のスケジュールはこうです。

  • 朝から夕方まで、叔父の仕事
  • 18時に寝る
  • 21時に起きる
  • 22時から翌朝8時まで、コンビニ

仮眠は3時間です。 それで、また次の日が始まります。

生活に必要な分は、こうやって自分で稼いで、自分で管理していました。これは後で、面接で効いてきます。

冬の宮城

雪がすごいところでした。

朝、車に乗り込むと、置きっぱなしにしていたコーヒーがカチカチに凍っていました。

正直に書くと、辛かっただけです

美化するつもりはないので、そのまま書きます。

意外と面白かったこと、というのは特にありません。とにかく辛かったです。

きつかったのは3つでした。

1つは、給料がゼロだったこと。 当たり前ですが、これが一番こたえます。

2つ目は、夜間バイトのある日を、仮眠3時間でやり抜くこと。

3つ目は、叔父からのアドバイスでした。当時は理不尽にしか聞こえなくて、意味が分からないまま振り回されていました。(この言葉の意味が分かるのは、だいぶ後になってからです)

そんな2年半で、好きだった時間を1つだけ挙げるなら、バイトに行く道中、車に一人でいる時間でした。

なぜ給料が出なかったのか

理由ははっきりしていました。私の側にあります。

大学時代、私はプライドだけが高い学生でした。自分で稼いでもいないのに、身の丈に合わない生活をしていた。足元がまるで見えていませんでした。

叔父はそれを見抜いていて、こう考えたそうです。金にとらわれず、やりたいことをやる経験をさせたほうがいい。

だから、給料を出さなかった。

2年半で変わったこと

いちばん変わったのは、お金の見え方です。

ゼロ円からのスタートだったので、1円もらえるだけで大金に思えました。 そして金額より先に、「この経験は将来の自分にいくら返ってくるか」で物事を考えるようになりました。

大学時代の私には、絶対にできなかった考え方です。


履歴書に、書く欄がなかっただけだった

ここが、この記事でいちばん伝えたいことです。

私はずっと、この2年半を「空白期間」と呼んでいました。職歴欄に書けなかったからです。

でも、実際にやっていたことを並べ直すと、こうなります。

実際にやっていたこと職務経歴の言葉にすると
釣り堀の運営店舗運営・接客
SNSでの集客マーケティング実務
渓流魚の養殖一次産業の生産管理
夜間のアルバイト生活費を自分で賄っていた

空白ではありませんでした。 雇用契約がなかっただけで、実務は2年半ぶん、確かに存在していました。

私が「空白」と呼んでいたのは、履歴書のフォーマットに合う欄がなかったからです。事実がなかったからではありません。 この2つは、まったく違います。

念のため書いておくと、これは「嘘をつけ」という話ではありません。逆です。やったことを、やった通りに、正確な言葉で書けという話です。多くの人は、書ける事実を持っているのに、それを職務経歴の言葉に翻訳できていないだけです。


出るときも、自分で決めた

2年半経ったころ、私は毎日、叔父に反発していました。

不思議な反発の仕方でした。叔父が何を言うか、私にはもう分かるんです。そして、言われる内容が正しいことも分かっている。 それでも反発してしまう。

あるとき気づきました。このままだと、どれだけいいことを言われても反発で終わる。 つまり、もうここでは成長できない。

インプットが飽和していたんだと思います。次に必要だったのは、一度この場所を離れて、外でアウトプットしてみることでした。

叔父は止めませんでした。追い出しもしませんでした。この判断は、完全に自分でしました。

もし今、空白期間の中にいて「いつ動けばいいのか分からない」と思っている人がいるなら、これだけは言えます。

動く合図は「準備ができたとき」には来ません。「同じ場所にいても、もう何も変わらなくなったとき」に来ます。


2社しか受けていない

宮城を出て、就職活動を始めました。26歳、社会人歴0年。傍から見れば無職です。

でも、不安はありませんでした。働いている同年代より濃い2年を送った、という自負があったからです。

やったことは、たった1つです。転職フェアに行きました。

きっかけは、親が見つけたポスター

高崎で転職フェアが開かれることを、私は知りませんでした。

車を運転していた親が、たまたまポスターを見かけたそうです。そして一言。

「お前、行ってこい」

それだけです。自分で調べて見つけたわけではありません。

服装は、埋もれないことだけ考えた

グレーのスーツを着ました。ただし、シャツは着ていません。ハイネックで行きました。

理由は単純で、埋もれるのが嫌だったからです。会場はスーツの人しかいません。その中で、少しでも記憶に残る格好にしたかった。

履歴書の職歴欄は、白紙で出した

いま振り返ると、ここが自分でも情けないところです。

履歴書は事前にデータで送っていました。そのとき、宮城での2年半を「仕事」として書いていいのか、分からなかったんです。

自分は無職なのか。あれは職歴と呼べるのか。判断がつかず、結局職歴欄は白紙のまま、大学卒業までしか書かずに提出しました。

さっき「書ける事実を持っているのに、職務経歴の言葉に翻訳できていないだけだ」と書きました。当時の私が、まさにその状態でした。

どのブースでも、自分から言った

回るブースは、あらかじめ3社ほど決めていました。そこを目がけて行きました。

そして、どのブースでも同じ一言から始めました。

「私、26歳にして無職なんですけど」

隠さず、自分から言いました。

言えた理由ははっきりしています。他のどの転職者よりも濃い経験をしている、という自負があったからです。

紙には書けなかったことを、口では言えた。 いま思えば、この差が結果を分けました。

2社から、その日のうちに連絡が来た

反応があったのは2社でした。地元の広告会社と、大手の人材会社です。

人材会社のほうは、会場中を探し回って、関東エリアの部長が私を見つけに来てくれました。

両社とも、フェアが終わった直後にメールをくれました。そこから面接に進んで、最終的に1社から内定が出ました。それだけです。


なぜ、2社で決まったのか

当時はまったく意識していませんでした。あとから振り返ると、理由は3つあったと思っています。

はじめの2つは「どこで会うか」の話です。3つ目は「何を話すか」の話なので、面接で実際に何を聞かれて何と答えたかを書いたあと、最後に回します。

① 書類選考のない場を選んでいた

空白期間は、紙の上でいちばん不利になります。 履歴書だけを見れば、職歴欄が空いている人間です。書類選考は、その紙で判断されます。

転職フェアには、その書類選考がありません。いきなり人に会えます。

② 決裁権のある人に、直接会えた

これは実際に起きたことです。

さっき書いた、会場中を探して私を見つけに来てくれた部長の話です。宮城の話を面白がってくれて、その場でスカウトされました。

数日後、その同じ会社の1次面接を受けました。まったく話が噛み合いませんでした。

同じ会社です。同じ経歴です。数日しか経っていません。それでも、結論は正反対でした。

このとき思ったのは、会社を引っ張る人と、引っ張られる人の違いでした。

1次面接の担当者は、決められた基準で「引っかかるかどうか」を見ます。空白期間は、その基準に必ず引っかかる。一方、決裁権を持つ人は基準では見ません。「この人間は面白いか」で見ます。 だから、同じ経歴でも結論が変わる。

もし今、1次面接で落ち続けている人がいるなら、これは覚えておいてほしいです。

落ちたのは、あなたの経歴が否定されたからではありません。減点表を持っている人に当たった、というだけです。

そして、対策があります。決裁権のある人に直接会える場を選ぶこと。 転職フェア、社長が面接に出てくる規模の会社、紹介。逆に、選考が何段階もある新卒型の採用は、空白期間がある人には構造的に不利です。


面接で聞かれた3つと、答えた言葉

ここが、この記事の本題です。

最終的に内定をもらった会社の面接では、こう聞かれました。

「本当に給料ゼロだったの?」

「ゼロの理由は?」

疑われていました。信じられていなかったと思います。

私は「人生修行でした」とそのまま答えました。「社会人歴は0年です」とも、自分から言いました。飾りませんでした。

そのうえで、3つのことを話しました。

① なぜそうなったか

叔父の意図をそのまま話しました。自分にプライドだけが高い時期があったこと。それを見抜かれて、金にとらわれない経験をさせられたこと。

怠けていた結果ではないということが、ここで伝わります。

② その2年で何が変わったか

金額より先に、経験が将来にいくら返ってくるかで考えるようになったこと。ゼロからのスタートだったので、1円が大金に思えたこと。

期間が「消えた時間」ではなく「変わった時間」として伝わります。

③ その間、どう食べていたか

夜間のバイトで、自分の生活費は自分で管理していたこと。

振り返ると、いちばん効いたのはこれでした。

面接官が「本当に給料ゼロだったの?」と聞いたとき、本当に知りたかったのは無給かどうかではありません。

この人は、自分で生きていける人間なのか。

それだけです。夜間バイトの話は、その不安を一撃で消しました。

そして、多くの人がここを言い忘れます。空白期間の「意味」を語ろうとして、「その間どう生活していたか」を飛ばしてしまう。バイトでも、貯金でも、家族の支援でも構いません。事実を1行言うだけで、面接官の最大の不安は消えます。

内定辞退と、宮城に行った理由

同じ面接で、この2つも聞かれました。

「なぜ内定を蹴ったのか」には、このまま社会人としてレールにハマっていいのかと思った。若いうちにしかできない選択だと思ったと答えました。

「なぜ宮城に来たのか」には、叔父に「人生変えたいなら宮城に来い」と言われたからと答えました。

あとから3つの答えを並べて、気づいたことがあります。

私は一度も、言い訳をしていませんでした。

全部、「自分が何を基準に選ぶ人間か」の説明になっていた。面接官は「なぜ働いていなかったのか」を聞いているようで、実際には「この人は何で動く人間なのか」を見ています。だから、減点表を持たない上の立場の人ほど食いついたんだと思います。

正直に話すと、落ちる会社が出てくる

大事なことを書いておきます。

私は正直に話しました。その結果、1社では噛み合わず、1社では通りました。

これは失敗ではありません。選別が正しく働いたということです。

隠して入れば、隠したまま働くことになります。開示したから、開示しても面白がってくれる会社に入れました。

正直に話すことは、受かるための技術ではありません。合わない会社を落とすための技術です。


③ 自分の言葉で、説明できた

後回しにしていた、3つ目の理由です。

ここまでは「どこで会うか」の話でした。最後は「何を話すか」── というより、話せる中身を持っているかどうかの話です。

26歳、社会人歴0年、傍から見れば無職。それでも私には、ほとんど不安がありませんでした。

メンタルが強かったわけではありません。理由ははっきりしています。

あの2年半を、自分の言葉で説明できたからです。

中身を自分で語れたから、他人からどう見えるかが気にならなかった。それだけです。

逆に言えば、説明できない期間は、どれだけ短くても不安になります。

だからこのブログで一貫して言いたいのは、これです。

空白期間そのものは問題じゃない。空白期間を自分の言葉で説明できないことが問題。


その後 ── 就職はゴールではなかった

内定をもらったのは、総合広告代理店でした。3月1日に入社しました。

入って気づいたのは、宮城で言われていたことが、やっと客観的に見えるようになったことです。

会社はベテランの方ばかりで、同期は1人だけでした。その人たちの働き方を横から見ているうちに、あのとき叔父に言われて反発していた言葉の意味が、少しずつ分かってきました。

宮城の経験が直接役に立った、とは言えません。ただ、外に出て初めて、あの2年半を客観視できるようになりました。

楽であり、辛い環境だった

働いてみて、いちばん強く感じたことを、そのまま書きます。

会社という枠に守られて、決められたルールの中で働くことは、私にとってとても楽で、そしてとても辛い環境でした。

矛盾しているようですが、両方とも本当です。

環境も、上司も、悪くありませんでした。楽しかったです。定年まで働けば、お金は安定する。それも分かっていました。

それでも、そこに安心を感じませんでした。

何十年もある人生を、もっと面白くできないか。そう考えたときに、物足りなさが残りました。

5ヶ月で、次に移った

きっかけは、いまいる会社を紹介してもらったことでした。

紹介があった1週間後、6月の中旬に、会社へ話をしました。引き継ぎをして、7月31日に退職。入社から5ヶ月で、次の会社に移りました。

短いです。自分でもそう思います。ただ、辞めてから探したのではありません。次が決まってから動きました。 空白は1日も作っていません。

辞めるとき、周りにはこう言われました。

「入社した当初から、定年までは絶対にいないと思っていた。長くて5年かな、と。思ったより短かったけど、予想外ではなかった」

いま何をしているか

いまはITのベンチャー企業にいます。ソフトウェアを作る会社です。

担当しているのは、地元・群馬に特化したマッチングアプリです。その先で、群馬に若い人を呼び込んで、企業とつなげて、若い世代がリーダーになれるようにする。そこを目指して仕事をしています。

結局、群馬に戻ってきました。


同じ場所にいる人へ

最後に、いま空白期間の中にいる人に向けて書きます。

この記事を読み返すと、私は4回、同じ判断をしています。

  • 内定を辞退したとき
  • 市役所を辞めて、宮城に行ったとき
  • 宮城を離れたとき
  • 5ヶ月で会社を出たとき

どれも「嫌だったから」ではなく、「ここではもう伸びないから」でした。 そして4回のうち3回は、次が決まっていませんでした。

空白期間は、その副産物です。サボった証拠ではなく、選び続けた結果として空いた場所でした。

たぶん今、こう思っている人がいます。「空白期間があるせいで、自分にはもう選ぶ権利がない」と。

そんなことはありません。就職はゴールではなく、次を選び直せる場所に立つことです。 一度どこかに入れば、そこからまた選べます。

そのために必要なのは、経歴を綺麗にすることではありません。自分がその期間に何をして、何が変わったのかを、自分の言葉で言えるようにすることです。

それさえできれば、2社で決まることもあります。

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